自己紹介
すみかまたくやのプロフィールページをご覧いただき、ありがとうございます^^
横浜市の山手学院高校をかろうじて末席で卒業したが、
大の勉強嫌いだった私は、大学はおろか専門学校の受験にも失敗。
その専門学校の不合格通知の中に、
「夜間部なら受け入れ可能」と書かれていたため、
とりあえず、これも運命と思い、
そのまま専門学校の夜間部にお情けで入学させてもらうことに。
その後2年間(18歳から20歳)は、
当時の三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)系列の中堅旅行会社で
初めての社会人生活(といっても研修生扱いだが)をスタートさせながら、
夜は旅行専門学校で勉強という二足のわらじ生活を送っていた。
父方に医者、母方に起業家の血統をもつ私は、
いったいどちらの血が濃いのかと自分でも興味を持っていたが、
初めての社会人生活で、お金を稼ぐことの面白さを知り、
自分の体には医者ではなく起業家の血が流れているということに
本能的に気がついたのがこのころ。
高校時代の同級生が大学で遊びほうけているころ、
お金を稼ぐことの面白さにはまり、徐々に夜間学校に行く日も少なくなっていく。
(・・・で、結局単位不足で卒業できず)
そのころ世間ではバブルが崩壊。
就職氷河期といわれていたちょうどそんなときに、私たちの就職活動が始まった。
そんな世間の不況を尻目に、たいした就職活動もしなかった私だったが、
当時としてはあり得ないようなオファーが舞い込んできた。
当時研修生として勤めていたその旅行会社の部長に呼び出され、
「就職するなら、ぜひうちに」と。
しかし、大手資本が入った大企業の子会社では「商売の本質が学べない」
と思い丁重にお断りを入れ、創業まもない社員数数名の旅行会社の門を叩くことに。
「俺はビッグになる!サインが欲しい人は今のうちに!」
などと友人たちに公言していた当時の私。
この口だけは一人前のあまったれ小僧が
社会の厳しさを知るまでに、そう時間はかからなかった。
風呂なしトイレなし電話なしの四畳半一間で生活し、
飛び込みのドブ板営業はもちろん、上司の車磨きからマッサージまで何でもやった。
何があっても絶対逃げないと心に誓い、
歯を食いしばりながら旅行の仕事に向き合い始めて数か月がたったころ、
高校時代の先輩から、「俺の会社に来い。お前の情熱をうちの会社に注いでくれ。」
と言われ、なぜかあっさり全くの別業界へ転職。
しかし、今思えば、この転職が私の人生のターニングポイントだった。
ここで出合ったのが、今でも私のビジネスフィールドである、オートバイ業界。
社員数15名ほどのオートバイ業界の商社で働きながら、
大人の良い世界も悪い世界も知るようになったのがちょうどこのころ。
同世代の友人たちより、多くを稼いでいることを誇りに思いながらも、
比較的単調な毎日に、「俺はこのままで本当にビッグになれるんだろうか・・・」と
自分の実力を疑い始めたころ、
この商社を辞めて起業しようとしていた先輩から、一通のファックスが自宅に届いた。
携帯電話もパソコンも一般に普及していなかった時代だ。
「若い衆を一人たのむ。」
筆ペンのようなもので、A4の紙に、たったひとこと。
気がついたらその先輩の前に立っていた。
国美コマース株式会社が誕生した瞬間だ。このとき私はまだ弱冠24歳。
その先輩(現:国美コマース代表者)は、
本当は私に、誰か別の人間を紹介してもらいたいようだったが、
そこを強引にねじ曲げてしまうあたりが私らしさか。
97年に設立登記をし、98年から営業活動をスタートさせた私たちだったが、
世間の風あたりは予想以上に厳しく、収入は前職の三分の一以下。
持っていた貯金も最低限の生活費を残し、残りはすべて会社に投入した。
それでもベンチャー企業の創業に携わることができた喜びは何物にも代え難く、
そのころに
「自分は、メシは食わなくても夢を食って生きられる人間」であることに気がつく。
それから13年がたち2010年。
根拠のない自信家だった私も、多くの失敗からたくさんのことを学び、
今年で37歳になる。
主に営業畑で生きてきた私だが、最近は組織、人事、財務なども学びながら、
名前だけでない真の経営者を目指している。
学生時代にさんざん勉強をサボった反動からか、
勉強するのが楽しくてしようがない今日この頃。
わずかな時間を見つけては、経営にまつわる勉強をするのが
目下楽しみの一つでもある。
今後のビジョンは、質の高い内的報酬を
経営陣も含めた全従業員間で与えあえる組織をつくりあげること。
そしてその質を全従業員が高め続ける努力を
自発的にし続けられるような企業文化が根付くようサポートすること。
平日の日中は、主に横浜市都筑区のオフィスで経営だけでなく、
あれやこれやと雑用もこなしている、私、炭竃拓也です。
京都生まれの奈良育ち。大阪に程近い奈良の生駒という地で幼少期を過ごす。
今でこそナチュラルな標準語を使いこなす私だが、
バリバリの関西弁の中で育ったこともあり、
今でも関西の人と話すとつられて関西なまりになってしまうのは、
こんな幼少期のバックグラウンドが影響しているもの。
小学校6年生の時に、
「日テレ系バラエティ番組 “欽ちゃんの仮装大賞”」でテレビデビューを果たし、
調子に乗った私が小学校の卒業文集に書いた夢は、「漫才師」。
学校では人を笑わせることにおいては誰にも負ける気がしなかったことから、
将来は吉本興業に入ってお笑いでメシを食うことを決意したが、
程なく父親の転勤で、家族道づれで横浜へ。
吉本興業へのはかない夢が断たれた瞬間だった・・・。
どうも関東の水が馴染めない、関西出身のお笑い崩れの私に、
次の転機が訪れたのが、高校2年生の1学期。
学校一の暴れん坊でありケンカ王者でもあった、ある人物との
運命的な出会いから、全国レベルの空手道部に入部することになる。
人を笑わすことにかけては絶対的な自信を持っていたものの、
幼少期から体が細くケンカは勝つことより負けることの方が多かった私を、
なかば強引に誘ったその人物こそが、
私の人生を大きく変えたといっても言い過ぎではないと思う。
華奢な体でケンカのセンスもなかった私が、
全国レベルの空手道部の活動やりきったという成功体験。
「世の中やってできないことは何もない」
ということを、自らの身をもって知った高校時代となった。
部活一筋、女も学業も知らないままに
社会に飛び出した私に訪れた次の転機が、22歳での結婚。
相手は三歳年上のキャリアウーマン。
高校時代の仲間たちが、
大学で、“酒だ、女だ、ギャンブルだ” と遊んでいる間に、
リアルな商売の面白さと、同級生の女の子とはケタ違いの魅力を持つ
年上女性の魅力をいち早く知った私だったが、
今思えばかなり調子に乗ったアマちゃんの若造だったなぁと、
ふと考えると恥ずかしい。
その後、24歳の時に第一子が誕生。
そして、その第一子誕生から数ヶ月後には、お金も地位も全てを捨てて
国美コマース株式会社の創業に飛び込んだのだから、
その無謀さといったら誰にも負けないと思う。
(妻もまあ、よく離婚届を持ってこなかったものだと、いまだに不思議である)
この第一子の長女は現在中学一年生。
同級生の中ではかなり体が小さく細いのは、
この子の生まれ年と国美コマースの創業年度が同じであることに
因果関係があるかもしれない。(いや、そんなことはないと信じたい。)
家族も大事、従業員も大事、友達も大事。
大好きな人たちに囲まれて生きていられることの喜びをかみしめながら、
大好きな読書にいそしむのが、最近のもっとも贅沢な休日の過ごし方である。
生粋の関西の血でありながら、横浜のベイサイドに住を構え、
今ではすっかり浜っ子気分。
そんな潮と異国の香りが漂う横浜で、
おしゃれでインテリな関東人のマネをして暮らすことが、
最近の私のお気に入りになっている(笑)

ONのBiography
横浜市の山手学院高校をかろうじて末席で卒業したが、
大の勉強嫌いだった私は、大学はおろか専門学校の受験にも失敗。
その専門学校の不合格通知の中に、
「夜間部なら受け入れ可能」と書かれていたため、
とりあえず、これも運命と思い、
そのまま専門学校の夜間部にお情けで入学させてもらうことに。
その後2年間(18歳から20歳)は、
当時の三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)系列の中堅旅行会社で
初めての社会人生活(といっても研修生扱いだが)をスタートさせながら、
夜は旅行専門学校で勉強という二足のわらじ生活を送っていた。
父方に医者、母方に起業家の血統をもつ私は、
いったいどちらの血が濃いのかと自分でも興味を持っていたが、
初めての社会人生活で、お金を稼ぐことの面白さを知り、
自分の体には医者ではなく起業家の血が流れているということに
本能的に気がついたのがこのころ。
高校時代の同級生が大学で遊びほうけているころ、
お金を稼ぐことの面白さにはまり、徐々に夜間学校に行く日も少なくなっていく。
(・・・で、結局単位不足で卒業できず)
そのころ世間ではバブルが崩壊。
就職氷河期といわれていたちょうどそんなときに、私たちの就職活動が始まった。
そんな世間の不況を尻目に、たいした就職活動もしなかった私だったが、
当時としてはあり得ないようなオファーが舞い込んできた。
当時研修生として勤めていたその旅行会社の部長に呼び出され、
「就職するなら、ぜひうちに」と。
しかし、大手資本が入った大企業の子会社では「商売の本質が学べない」
と思い丁重にお断りを入れ、創業まもない社員数数名の旅行会社の門を叩くことに。
「俺はビッグになる!サインが欲しい人は今のうちに!」
などと友人たちに公言していた当時の私。
この口だけは一人前のあまったれ小僧が
社会の厳しさを知るまでに、そう時間はかからなかった。
風呂なしトイレなし電話なしの四畳半一間で生活し、
飛び込みのドブ板営業はもちろん、上司の車磨きからマッサージまで何でもやった。
何があっても絶対逃げないと心に誓い、
歯を食いしばりながら旅行の仕事に向き合い始めて数か月がたったころ、
高校時代の先輩から、「俺の会社に来い。お前の情熱をうちの会社に注いでくれ。」
と言われ、なぜかあっさり全くの別業界へ転職。
しかし、今思えば、この転職が私の人生のターニングポイントだった。
ここで出合ったのが、今でも私のビジネスフィールドである、オートバイ業界。
社員数15名ほどのオートバイ業界の商社で働きながら、
大人の良い世界も悪い世界も知るようになったのがちょうどこのころ。
同世代の友人たちより、多くを稼いでいることを誇りに思いながらも、
比較的単調な毎日に、「俺はこのままで本当にビッグになれるんだろうか・・・」と
自分の実力を疑い始めたころ、
この商社を辞めて起業しようとしていた先輩から、一通のファックスが自宅に届いた。
携帯電話もパソコンも一般に普及していなかった時代だ。
「若い衆を一人たのむ。」
筆ペンのようなもので、A4の紙に、たったひとこと。
気がついたらその先輩の前に立っていた。
国美コマース株式会社が誕生した瞬間だ。このとき私はまだ弱冠24歳。
その先輩(現:国美コマース代表者)は、
本当は私に、誰か別の人間を紹介してもらいたいようだったが、
そこを強引にねじ曲げてしまうあたりが私らしさか。
97年に設立登記をし、98年から営業活動をスタートさせた私たちだったが、
世間の風あたりは予想以上に厳しく、収入は前職の三分の一以下。
持っていた貯金も最低限の生活費を残し、残りはすべて会社に投入した。
それでもベンチャー企業の創業に携わることができた喜びは何物にも代え難く、
そのころに
「自分は、メシは食わなくても夢を食って生きられる人間」であることに気がつく。
それから13年がたち2010年。
根拠のない自信家だった私も、多くの失敗からたくさんのことを学び、
今年で37歳になる。
主に営業畑で生きてきた私だが、最近は組織、人事、財務なども学びながら、
名前だけでない真の経営者を目指している。
学生時代にさんざん勉強をサボった反動からか、
勉強するのが楽しくてしようがない今日この頃。
わずかな時間を見つけては、経営にまつわる勉強をするのが
目下楽しみの一つでもある。
今後のビジョンは、質の高い内的報酬を
経営陣も含めた全従業員間で与えあえる組織をつくりあげること。
そしてその質を全従業員が高め続ける努力を
自発的にし続けられるような企業文化が根付くようサポートすること。
平日の日中は、主に横浜市都筑区のオフィスで経営だけでなく、
あれやこれやと雑用もこなしている、私、炭竃拓也です。
OFFのBiography
京都生まれの奈良育ち。大阪に程近い奈良の生駒という地で幼少期を過ごす。
今でこそナチュラルな標準語を使いこなす私だが、
バリバリの関西弁の中で育ったこともあり、
今でも関西の人と話すとつられて関西なまりになってしまうのは、
こんな幼少期のバックグラウンドが影響しているもの。
小学校6年生の時に、
「日テレ系バラエティ番組 “欽ちゃんの仮装大賞”」でテレビデビューを果たし、
調子に乗った私が小学校の卒業文集に書いた夢は、「漫才師」。
学校では人を笑わせることにおいては誰にも負ける気がしなかったことから、
将来は吉本興業に入ってお笑いでメシを食うことを決意したが、
程なく父親の転勤で、家族道づれで横浜へ。
吉本興業へのはかない夢が断たれた瞬間だった・・・。
どうも関東の水が馴染めない、関西出身のお笑い崩れの私に、
次の転機が訪れたのが、高校2年生の1学期。
学校一の暴れん坊でありケンカ王者でもあった、ある人物との
運命的な出会いから、全国レベルの空手道部に入部することになる。
人を笑わすことにかけては絶対的な自信を持っていたものの、
幼少期から体が細くケンカは勝つことより負けることの方が多かった私を、
なかば強引に誘ったその人物こそが、
私の人生を大きく変えたといっても言い過ぎではないと思う。
華奢な体でケンカのセンスもなかった私が、
全国レベルの空手道部の活動やりきったという成功体験。
「世の中やってできないことは何もない」
ということを、自らの身をもって知った高校時代となった。
部活一筋、女も学業も知らないままに
社会に飛び出した私に訪れた次の転機が、22歳での結婚。
相手は三歳年上のキャリアウーマン。
高校時代の仲間たちが、
大学で、“酒だ、女だ、ギャンブルだ” と遊んでいる間に、
リアルな商売の面白さと、同級生の女の子とはケタ違いの魅力を持つ
年上女性の魅力をいち早く知った私だったが、
今思えばかなり調子に乗ったアマちゃんの若造だったなぁと、
ふと考えると恥ずかしい。
その後、24歳の時に第一子が誕生。
そして、その第一子誕生から数ヶ月後には、お金も地位も全てを捨てて
国美コマース株式会社の創業に飛び込んだのだから、
その無謀さといったら誰にも負けないと思う。
(妻もまあ、よく離婚届を持ってこなかったものだと、いまだに不思議である)
この第一子の長女は現在中学一年生。
同級生の中ではかなり体が小さく細いのは、
この子の生まれ年と国美コマースの創業年度が同じであることに
因果関係があるかもしれない。(いや、そんなことはないと信じたい。)
家族も大事、従業員も大事、友達も大事。
大好きな人たちに囲まれて生きていられることの喜びをかみしめながら、
大好きな読書にいそしむのが、最近のもっとも贅沢な休日の過ごし方である。
生粋の関西の血でありながら、横浜のベイサイドに住を構え、
今ではすっかり浜っ子気分。
そんな潮と異国の香りが漂う横浜で、
おしゃれでインテリな関東人のマネをして暮らすことが、
最近の私のお気に入りになっている(笑)



